評価・・・83点
キャッチコピー
昨日までの、自分を超えろ。
監督:ジョセフ・コシンスキー
キャスト
- ブラッド・ピット(ソニー)
- ダムソン・イドリス(JP)
- ハビエル・バルデム(ルーベン)
- ケリー・コンドン(ケイト)
感想(※以下、ネタバレあり)
「老害が!」
ネチネチと仕事の内容にケチをつける先輩社員や責任は取らないくせに威張り腐った高給取りの上司の振る舞いに心のなかでこの言葉を浴びせ続けてきた。
「黙れ、老害が!」
最近も、コンビニの外国人店員にイチャモンをつけているクソジジイに対して、そう思った。
「死ね、老害が!」
満員電車の中で、大股を広げて座っているオヤジに対して、昨日そう思った。
フランクに気軽に軽やかに「老害が!」と使っているのだが、よくよく考えてみると、私も「老害」と呼ばれてもおかしくない年齢になっていることに気づき、ハッとする。
自分とは違う汚らしいもの、煩わしいもの、唾棄すべきものの象徴として「老害」と一括りにしてきたが、これからは自分ごととして「老害」に向き合わければならない。
「老い」というのは等しく訪れ、そして等しく醜い。よって、「俺は老害にならない」なんてほざくのは覚悟が足りない。「老害になる、ならない」でなく、「どのような老害になるか」がこの誰もが経験しなければならないイベントに対する誠実な向き合い方であろう。
そんな「老害」初心者の私にとって、タイムリーな映画がやってきた。
1963年生まれの60歳。りっぱな「老害」であるブラッド・ピットが主演を務める「F1」である。
公開から2週間たった週末にIMAXにて鑑賞。2週間たっているにもかかわらず、7割以上の客入りと非常に盛況であった。
セナやプロストが牽引したF1ブームは1990年初頭。つまり30年以上前のことだ。このころに青春期を過ごした方々、つまり老害どもが大挙して押し寄せていた。
トップガンマーヴェリックの製作陣による作品だけあって、映画館で観るに値する、素晴らしい作品であった。どこが素晴らしかったかというレビューは他に譲るとして、ここではこの作品の持つ「老害の指南書」としての魅力を語りたいと思う。
現場へのこだわり
ソニーは走り続けることにこだわる男だ。金のためでも、名誉のためでもない。「走ることが好きだから、俺は走り続ける」と宣言し、自分の流儀で走り続ける。
そして舞台の大小にこだわらない。F1だろうが草レースだろうが、現場にこだわり、走ることにこだわる。
この潔さを我々老害も見習いたい。「現場の仕事は若い人に…」と言い訳せずにむしろ現場にこだわっていこう。そう、それは大舞台でなくていい。小さい現場で十分だ。手を動かし足を動かしていこう。
映画終盤で現場から離れて管理職に誘われる場面があるが、ソニーはそれをキッパリと断る。
我々も多少の賃金アップに惑わされることなく、くだらない昇格話はキッパリ断ろう。
いちど現場を離れたらもう走ることはできなくなる。手を動かすこともできなくなる。ここが正念場だ。
飛べない豚はただの豚。手が動かない老害はただの老害だ。
ガンダムの老兵ガデムのように「歳の割に素早いはずだ」といつまでも言える気概を持ちたいものだ。
弛まぬ努力
俺だって昔は頑張ったものさ…俺だって若ければなぁ…ソニーはそんなことは一言も言わない。
サーキットをランニングし、懸垂で背中を鍛え、Gに耐えるべく首を鍛え、反射神経を鍛えるべくテニスボールでトレーニングする。
ここでのポイントは、鍛える方法が昔ながらのやり方であったり、独自の方法であったりするのは関係がない、ということだ。
走り続けるという覚悟を持ち、そのためにベストを尽くす姿勢こそ、我々老害が学ぶべき点だ。
我々老害は得てして、逃げるか、あるいは、これまでの経験で乗り切ろうとする。
弛まぬ日々の鍛錬という土台があってこそ生きる経験。若い頃よりむしろ努力が必要なのだと肝に銘じたい。
若者の壁として
ソニーはチームメイトのJPとたびたびぶつかる。
お互い現場で戦う者同士の衝突だ。
現場を離れた老害が現場で戦う若者に、くだらないアドバイスをするのとは訳が違う。
現場に残ってこそ、次の世代に伝えられるものがある。
ソニーは若者に媚びたり、迎合したり、猫撫で声で煽てたりしない。
きちんと正面からぶつかる。

若者に嫌われることを恐れるな。大丈夫。心配しなくても、もうすでに嫌われているから。そんなことよりも、いつかは超えられる「壁」として若者の前に立ちはだかる立派な老害を目指そう。
老害ファッション
ここまではソニーの信念、立ち振る舞いなどから老害の作法を学んだ。じゃあ彼のファッションも取り入れちゃおうよ、我々老害も外見に気を使うべきよ、と思うかもしれない。

絶対にやめておけ。
あれは、ブラッド・ピットだから成り立つ。老害だから様になっているのではない。ブラッド・ピットだから様になっている。
特に、シャツを第二ボタンまではだけているのは最悪だ。

我々は臭くて醜い老害だ。そこに色気をプラスしてどうする。哀れで滑稽なだけだ。
老害に必要なのは色気でなく清潔感。
人工的に加算された清潔感で、ようやく我々の汚さが中和される。
ソニーのファッションは映画ならではのファンタジーと割り切って観ていただきたい。
老害の恋愛
ソニーは恋愛にも積極的だ。老害だって恋したっていいじゃない?
アホか。
やめておけ。
醜い臭い生物が、セクシーな服を着て、目を血走らせて、脂ぎった顔で、恋愛の機会を求めて社内を徘徊するなど悪夢だ。セクハラだ。ホラーだ。犯罪だ。
前項では、服装の清潔感の必要性について、述べた。ここでは色欲を捨て去った禅僧のような精神の清潔感の必要性を提唱したい。
ソニーの振る舞いを反面教師としていただきたい。

ソニーの恋愛シーンはこの映画で最も不要で最も有害なものだと思う。
老害指南書としては不要、映画としては蛇足。相手の女性がソニーにほのかな恋心を抱くぐらいの表現にしていただきたかったものだ。
潔く立ち去ろう
ソニーは優秀なドライバーとしてでなく、戦略面、精神面、技術面において、チームの柱となった。
あのままいけば、チームはソニーのチームとなり、ソニーの思うがままにできる居心地のよい環境となったことだろう。
しかし、彼はそれを望まない。
自分のやるべきことは終わったのだと、新天地を求めて立ち去ることを選択する。
あのまま、チームに残ってしまったら、普通の老害になってしまうことが彼には本能的にわかっているのだ。現場から離れて、ただただ口だけを出す、手を動かさない、よくいる老害に。
現場で手を動かし続けることを信念とするとともに、我々は常に「立ち去ること」の潔さを胸に秘めていたい。
我々現実世界の老害ライフに当てはめると、自分のやるべき仕事が終わったと感じたなら、潔く別の部署に異動願いを出そう。あるいは、いっそのこと転職したっていいじゃないか。
もっといてくれたらいいのに…と若者に思ってもらえるくらいのタイミングで立ち去るのが理想だ。
現場で戦い続けるのだという頑迷さとスッと立ち去る高潔さを持って、理想的な老害となろう。
ソニーが新たな現場で楽しそうに走るラストシーンは我々老害に勇気を与えてくれる素晴らしいシーンであった。
私は今後、立ち去る勇気が出ない場面に直面したら、あのラストシーンを思い出そうと思う。
まとめ
全ての老害、必見の映画だ。
クリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」とともに、40代後半の老害初心者には義務として観てもらいたい。
当然、日々老害の被害にあっている若い方にもおすすめです。