幸せの黄色いハンカチを掲げるのだ

大変だ、大変だ、大変だ!

プーさんが鼻息荒く駆け込んできた。

スタミナ、はぁはぁ、カルビはぁはぁ、今日だけ、はぁ、ひゃく、はぁはぁ……

「ちょっとぉ、あんた落ち着きなさいよ〜」

今日はことのほか青髭の目立つヨッちゃんが椅子を出して勧める。

ヨッちゃんはこの頃になるとオネエっぽいというより、完全にプーさんの親戚のオネエさんという風格だ。

はぁはぁ、スタミナカルビ丼が、今日だけ!はぁはぁ、半額なんすよ!

「半額なんすよ!!」

これにはシュニンも僕も思わずビクッと背筋を伸ばした。普段は冷静なヨッちゃんですら、椅子をガタッといわせて、はぁはぁ言ってるプーさんのほうに向き直ったのだった。

何回か前に書いたように、僕らの給与は月額14万円(シュニンだけ14万5千円)、手取りでなく額面だ。税金やら社会保険やらがザクザク引かれる前の金額がだ。

関西の肥満女が毒入りカレーを近隣住人に振る舞う事件がテレビを賑わす中、当時の首相が野菜のカブを両手に持って「株上がれー」と祈祷するも、株価がどうなったかはさて置き、とりあえず僕らの給与はピクリとも上がらなかった。

当時の大卒初任給は20万円弱であったが、それから比べても14万円はなんとも切ない金額。納税の義務を果たし、家賃を支払い、水道光熱費を支払ったら、カツカツだ。とにかくカツカツでギリギリで日々を生きていた。

僕らは、昼食は事務所の近所にある個人経営の弁当屋を主に利用していた。もっとも安い海苔弁が300円台で買えるので、貧乏人には大変ありがたい存在である。

その弁当屋の黄金人気メニューが、「スタミナカルビ丼(580円)」、略してスタカル丼なのだ。

ニンニクの芽、タマネギ、カルビを大量の油と塩コショウで炒め、旨味調味料で味を整えた至高の逸品だ。ニンニクの芽の確かな食感とタマネギのほのかな甘みを肉のリッチな旨味が包み込み、それらを旨味調味料でまとめ上げる海原雄山も垂涎の品である。

僕らは給料日から4〜5日だけはスタカル丼、あとは海苔弁、そして給料日間近は業務スーパーで買いだめしてきた名もなきメーカーの激安カップ麺で凌ぐのが常であった。

よって、給与が出るとその昼は4人揃ってスタカル丼を買い求めに弁当屋に連れ立って行くのが常であったし、それを一口頬張れば、あぁ、ありがたい、お給与をいただけて本当にありがたいと14万円の薄給でありながらも冗談抜きで感謝するその姿は「ご主人様にかしずく奴隷」のようである。そう、いつものアミーゴに対する反骨心も、給料日明けの「スタカル」一口で脆くも骨抜きになるのであった。

プーさんなんかは「次に生まれ変われるとしたら、毎日スタカル丼が食べられる人生を送りたいなぁ」と遠い目をして来世に想いを馳せる始末。

そんなわけで、そんじょそこらの素人には負けられないほど、スタカル丼を僕らは愛していたのである。

そんなスタミカル丼に対する愛で満ち満ちたこの薄汚い事務所にとって、毎日スタカル丼に想いを馳せながら海苔弁を頬張る僕らにとって、「スタミナカルビ丼半額キャンペーン」はまさしく「事件」であったのだ。

「よし、今日の昼飯はみんなでスタカル買いに行こうぜ、金ない奴は少しなら貸してもいいぞー」とシュニンが牧歌的な声を上げる中、ひとりプーさんだけが深刻そうな面持ちで腕組み。

どうしたのよ、嬉しそうじゃないわね、なんなのよ、とヨッちゃんが声をかける。

「自分は今日、スタカルを2杯食べるつもりっす。今までそんな大それた事をしたことがないのは、皆さんもわかっていると思います。このチャンスを逃すわけにはいかないんっす。つまりですよ、自分のような想いでダブル・スタカルに挑戦するヤカラが何人いると思います?それはそれはとんでもない数ですよ」

えーお前2つも食べるつもりなんだ、それは欲張りすぎだぞとシュニンの場違いなチャチャを片手を上げて制して、プーさんは続けた。

「そんなヤカラどもが12時になった途端、大挙してあのこじんまりとした弁当屋に押しかけるとしたら?餓鬼のようなヤカラどもが揃いも揃ってダブル・スタカルを注文したら?とてもじゃないが、捌ききれません、もしかすると材料が足りずに売り切れということも十分に考えらるのです」

と目頭をグリグリやりながら答えた。

これには一同ハッとした。

軽口を叩いていたシュニンも今では、眉間にシワを寄せて、メガネをネクタイで磨いている。僕は僕で、12時になった途端、プーさんの言うヤカラどもに、イナゴの大群がアフリカ大陸に襲来するイメージを重ねて身震いした。

嫌な沈黙が僕らを包んだ。

やるしかないわね…

沈黙を破ったのはヨッちゃんだった。

「やるしかないって言ってるのよ!早弁よ!それしか方法がないでしょうが!」

ヨッちゃんの計画はこうだ。1人の勇者が今から2時間後の11時半に事務所を出て、弁当屋に向かう。残りは事務所で待機し、アミーゴに「彼は客先に行き、そのまま食事に行くそうです」とアリバイ工作を行う。もっとも避けなければいけないのが、弁当を下げた勇者が12時前に帰還した際に、事務所に戻ったアミーゴと鉢合わせることだ。

もっとも、アミーゴは夕方まで帰らない予定であるので、鉢合わせの危険性はかなり低い、そういった意味ではアリバイ工作もおそらく必要はないであろうというのが、ヨッちゃんの見立てであった。

だとしてもだ。常にプランBを用意しておくことが戦場を生き抜くコツである。

そこはお決まりの「幸せの黄色いハンカチ作戦」だ。

常に日頃から、アミーゴが事務所にいる間は、道路から見える窓に黄色い下敷きを立てかけておくのが、僕らのルールとなっていた。

こうしておくと、客先から戻ってきた仲間たちにケイカイセヨ!と合図を送ることができ、場合によっては、事務所に戻らずにその辺で適当に時間を潰して、次の客先に移動することもできた。

客からの理不尽な要求に疲弊しているところに、アミーゴの怒鳴り声では、正直やってらんない。

僕らは事務所に戻る際は決まって、上を見上げて「幸せの黄色い下敷き」が出ていないか確認するのが習慣となっていたのだ。

特段、事務所に戻らなくて済むのならば、黄色を見たら回れ右。戻らなきゃいけない用事があるならば、黄色を見たら心して門をくぐれ。これが僕らの処世術。

今回の早弁作戦はこの「黄色いハンカチ」を戦術として採用することになった。

つまり、弁当を持った勇者は事務所に戻る前に黄色い下敷きが出ていないか、確認する。何もなければ、そのまま事務所に帰還。もし出ているようなら、12時過ぎるまで時間を潰し「ついでに弁当買ってきましたー」と客先からの帰りに弁当屋に寄ってきた風を装い、何食わぬ顔で切り抜ける、というのが大雑把な概要だ。

問題は誰が弁当を買いに行くか?だ。みんな、それを察知し、一瞬押し黙ったのだが、「自分が行くっす」とすくっと立ったのはプーさんであった。

「自分は、ダブル・スタカルっす。その分のリスクを負担するのは当然っす」と僕らに背中を向けた姿は勇ましく、「カッコつけやがって」とつぶやくシュニンも妙にハードボイルド。

その時、ガチャッと派手な音を立ててアミーゴが出勤してきた。

僕らは余韻に浸る間も無く、ビクッと背筋を伸ばす。

「朝からボヤーとしてるんじゃないよ、時は金なり、タイムイズマネー!」と晩秋にもかかわらず、額に汗を滲ませてお小言を撒き散らす姿は暑苦しい。

みんな、能面のような顔で机に向かう。でも、今日はいつもと違う。あと60分経たずに作戦決行だ、奴隷たちの反逆だ。

11時を回ったところでアミーゴが予定通り出かけた。

10分ほどの静けさの後、プーさんがすくっと立った。僕らに目を向ける。僕らは無言で頷き返す。アメリカンニューシネマの1シーンのようだ。ふと、銀行強盗の二人組のストップモーションが頭に浮かんだが、それを振り払い、とにかく生きて帰って来て欲しいと、たかだか弁当屋に行くだけなのだが、心底祈った。

プーさんが扉を開けて飛び出していく様は、まさにあの映画のラストシーンのようで、心がざわつく。嫌な予感。

彼が出て行ったあと、誰も無駄口を聞かず、ただただ時計のカチカチという音だけが耳につく不思議な静寂が訪れた。

突然、なんの前触れもなく玄関のスチール扉が勢いよく開いた。

うん?随分早いな、混んでなかったのかな?あるいは早く食べたくて走って帰って来たのか?とにかく良かった、あとは弁当を隠して12時少し過ぎたら食べ始めればいい。そんなことを考えながら顔を上げると、そこには目を疑う光景が広がっていた。

落ち葉の目立つ晩秋にもかかわらず、額に大粒の汗を滲ませている小太りの男が憤怒の表情を浮かべて立っていたのだ。

そう、アミーゴである。夕方まで帰らない予定のアミーゴである。いるだけで、空気が荒むアミーゴである。

僕は驚愕の表情を浮かべているシュニンを横目に見ながら、(テンパっている人を見ると、思いのほか冷静になれるものだ)落ち着いた口調で、いつものやる気のない口調で、「お帰りなさーい」とアミーゴに声をかけた。

「お帰りなさいじゃないよ!」というアミーゴの声を聞きながら、サッとヨッちゃんの方に目をやると、日本舞踊のような、たおやかな動きで、黄色い下敷きを窓に立てかける。さすがだ。

相変わらず、シュニンはテンパっている。

おい、シュニン!あの資料どこやった。あれがないと話にならないから慌てて戻ってきたんだよ、まったくお前の整理整頓がなってないから、こんなことになるんだ、いったいこれでどれだけの時間を無駄にしたと思っているんだ、だからお前は駄目なんだよ、さっさと持ってこい・・・

アミーゴが小言を言いながら、こちらに近づいてくる。その目線の先は・・・

その目線の先には「黄色い下敷き」があった。

バレたのか?

ヨッちゃんはクールな表情で書類に目を落としている。シュニンは相変わらずの驚愕の表情。

「おい、ところでプーは出掛けたのか?」

と、アミーゴが誰ともなしに声をかけながら、「黄色い下敷き」に近づく。

「えぇ、客先に資料を受け取りに・・・」

シュニンが相変わらずの驚愕の表情で答える。

アミーゴはそれには特に関心を示さず、「黄色い下敷き」に手を伸ばす。

それを無造作に掴みながら、

「まったく、俺の血圧を上げさせないでくれよ、日頃から整理整頓を徹底しろ」

と小言をいいながら、「黄色い下敷き」でその脂っこい顔をあおぎ始めた。

とりあえず、バレたわけではなさそうだとホッと一息。

しかし、「黄色い下敷き」が窓から外されたのに違いはない。いま下から窓を見上げると当たり前だが警告サインはでていない。

今まさに警告サインがないことから安心しきって、スキップを踏みながら軽口を叩きながらプーさんが玄関の扉をあけるのではないかとイメージして背筋に嫌な汗。

ミッションをクリアした開放感から、「スタカル丼5丁おまちー!」などと大声を上げながらフザケて入ってきそう。

まずいぞ、まずいぞ、まずいぞ。

とにかくプーさんに警告しなければ。

なにか警告につかえそうなものはないか?

僕は周りを見渡す。ヨッちゃんと目があう。彼も同じことを考えているようだ。

さらに周りを見渡す。シュニンがアミーゴに小言を言われている。

隙あり。

いまがチャンスだ。しかし警告に使えそうなものが見当たらない。

刻々と時間が過ぎていく。いまにも扉をあけてプーさんが飛び込んできそう。

その時、机の上に置いてあるビニール袋が目に入った。その中には大量の使い回した付箋が入っている。一度使った付箋でも粘着力がまだあるうちは、まだ使えるはずだ、経費削減だとのアミーゴの指示で僕らは付箋を捨てずにビニール袋に放り込んで大事に使いまわしていたのだ。

ケチ野郎が。と心の中で悪態をつきながらも、ふと引っかかる。そう、黄色いものが大量にあるではないか!そう、黄色い使い古しの付箋だ。

色とりどりの付箋でいっぱいのビニール袋のうち、黄色が集まっていそうなところに手を突っ込み、むんずと掴み、そっと玄関に向かう。

お前みたいなベテランがウダウダしているから、この事務所はダメなんだ、後方ではアミーゴのシュニンに対する小言が聞こえる。

すっとドアを開け、ノブのあたりと目線の高さにあたりをつけて、黄色い付箋を貼り付けた。

それから、10分たってもプーさんは戻ってこなかった。時間は12時を回った。弁当屋で混んでいて遅くなっているのか、それとも黄色いアレに気づいたのかはわからないが、とにかく危機は去った。

アメーゴが書類を抱えて、改めて客先に行ってくる!と不機嫌そうに怒鳴って出て行く。

それから1分も経たずにプーさんが戻って来た。

トップガンのトムクルーズのように親指を立てて。満面の笑みで。

彼が言うには、5つのスタカル丼を抱えてノリノリで戻って来たところ、閉じられたスチール扉から異様な雰囲気を感じとり、さらに目線の先にはヨレヨレの黄色い付箋、さらにノブの近くにも黄色い付箋が剥がれそうになりながらも、なんとか貼り付いているのが、目に入ったそうだ。ひん曲がったヨレヨレの付箋が死にそうになりながらも「キチャダメ」と訴えかけているように見え、とにかく入ってはいけないと、上の階で待機していたそうだ。

そんなプーさんの冒険話を聞きながら、食べるスタカル丼は抜群にうまかった。

アミーゴを引きつけていた俺がMVPだ、というシュニンに苦笑しながら食べるスタカル丼は抜群にうまかった。

もう一杯いけそうっすというプーさんに、来世の分まで味わいなさい!というヨッちゃんの辛口を聞きながら食べるスタカル丼は抜群にうまかった。

あれから20数年が経つが、あの時のスタカル丼より美味い弁当を食べたことがない。

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