前回の続き。
いつもの湿っぽい布団で目が覚めた。昨日の酒は残っていないようだ。そう、今日はいつもとは違う朝だ。今日から全てが変わる予感。久しぶりに布団を畳んだ。
約束は午後からだが、なんだかいてもたってもいられない感じ。髭を剃り、数ヶ月ぶりにムースを頭になで付けた。
そういえば、履歴書書いてなかったな、メンドクセーな、持ってこいと言われなかったから大丈夫かな、そういえば写真もとってねーな、メンドクセーな、写真も金がかかるしな、まあいずれ持っていけばいいだろう、メンドクセーからな、カネもねーしな、まあ大丈夫だろう、と納得して、手ぶらで行くことに決めた。
よれたワイシャツにくたびれたネクタイ。安物のスーツに腕を通し、就職が決まりカネが入ったらポールスミスのスーツを買おうと決めた。
駅前の立ち食い蕎麦屋で簡単に食事を済ませ、久しぶりに電車に乗り、明日からの職場になるであろう隣町に向かう。
約束の時間まで、まだ1時間以上あったが、ぶらぶらしてみる。
この街はあまり来たことがなかった。大学があるせいか、比較的垢抜けている雰囲気。パスタ屋、ドトールコーヒー、古着屋など学生が好きそうな店が並んでいる。自分には似つかわしくないと避けていた面もある。
テニスラケットを担いだ大学生らしき男女の集団が嬌声をあげながら、ドトールから雪崩出てきた。僕はこの世で何が嫌いかって、「テニスラケットを持って調子に乗ってる男女の集団」だ。これほど憎々しいものはない。
何もない僕に対して、彼らはあまりにも持ちすぎている。持っているのが悪いとは言わない、それを鼻にかけて(彼らはそういうつもりは無いのであろうが)有頂天で嬌声をあげているのが憎いのである。もっと謙虚になりやがれ。彼らになくて、僕が持っているものといったら、やけのやん八の行動力ぐらいであろうか。
集団の中のニキビづらの男が女の子の気を引こうと必死に甲高い声で話しかけている。
でさあー、でさあー、ヒロシがバカでさあー
女の子に必死でそいつは、前からくる僕のことなど目に入らないようで、肩がぶつかっても、知らんぷりだ。
おい!
自然と声が出る。男が振り返る。目と目が合う。腹の奥から熱くなる。やってやる。やけっぱちの恐ろしさを思い知らせてやる。
はたと気づいて、視線を外し顔を伏せ、前に向き直り歩き始めた。
そうだ、今日は大事な約束がある。こんなことをしていられない。
何もない人間には「約束」があることは「救い」だ。
後方でテニスサークルの嬌声が相変わらずが聞こえたが、さほど気にならなくなっていた。
目的地に向かってブラブラ歩く。
どこからか金木犀の香りがする。それを胸いっぱい吸い込んで、ああ、悪くない、悪くない通勤路だな、と満足した。
しばらく歩くと、電柱に目的地近辺の住所が現れた。
破いた電話帳のページに目を凝らす。
ビルの一階のガラス張りの綺麗なオフィスだと思い込んでいたのだが、それらしきオシャレな建物はない。あるのは汚い雑居ビルだ。
まさかな、と思いながらも郵便受けを確認すると3階に「アミーゴ法務事務所」がまさしくあった。他の入居者は無精なのか、あるいは空室なのか、ほとんどの郵便受けにチラシがパンパンに突っ込まれている。
当然、エレベーターはない。
ナンカ、チガウナーと思いながらも、ここまで来たからには後には引けない、ビルが汚かろうが関係ないだろう、結局は中身だ、気を取り直して階段を上がる。なんだか、ブスな彼女をもった奴の言い訳みてえだな。
なんの変哲もない、スチールの扉。ガラス張りでも、オシャレでもない。気が引けながらチャイムを鳴らす。ナンカ、チガウナー、これじゃまるで、売れない訪問販売の営業マンのようじゃないか。
ドアを開けて応対してくれたのは目の下のクマが目立つ若い男であった。最初に電話応対してくれた彼か?
なんの変哲もない玄関。もちろんインテリアの熱帯魚はいない。なんなら亀でも飼ってそうな雰囲気。
奥の応接に案内され、「所長が参りますので、少々お待ちを〜」と柔らかな口調で僕をソファへ導いた。このオカマっぽさは、やはり彼だ。
しばらく待つと、
「お待たせしました、アミーゴです」
とダンディな低音ボイス。
ダンディ、ロマンスグレー、すらりとした、理知的な、センスあるコロンをつけて、舘ひろしみたいな・・・そんなイメージを頭に描いて、顔を上げた。
目の前には、固太りのちょび髭の頭をハゲ散らかした、売れない手品師のようなおっさんが一人。
あれ?所長は?とキョロキョロすると、
売れない手品師は
「お待たせしちゃって申し訳ないね?迷わず来れたかい?」
と低音ボイス。
えー!!
ナンカ、チガウナー!!!
僕は能面のような顔で立ち上がり、
「タケオです。本日はお声かけいただき、かくかくしかじか」
と挨拶をした。
手品師の所長は満足したように、頷きながら、僕に座るように目線を寄越した。
それから僕らは雑談を重ねた。これまで何をしてきたのか、これからどうしたいのか、無職期間が長くなり、一刻も早くカネを稼がねばならないことも率直に話した。
また、できればアパートから近い職場が良かったこと、事務の仕事がしたかったこと、そのことから頭をひねって職業別電話帳を使って電話をかけて、職探しをしたことも話した。
アミーゴ社長は時代がかったそぶりで、膝をポンと打ち、
「うん!そこなんだよ、私が気に入ったのは!」
と声をあげた。
そして、
「目的のために積極的に貪欲に行動するというのは、わかっていてもできないからね、行動力というのは仕事の出来不出来にも直結するからね、よし、わかった!いま、うちの事務所は人手が足りてるが、ぜひタケオくんにも仲間になってもらいたい、どうだろう?」
とやや前のめりでまくし立てた。
まさにトントン拍子だ。たしかに昨晩から今朝方にかけて有頂天になっていた僕だが、何度かのナンカ、チガウナーで冷静さを取り戻していたので、頭を働かせる余裕があった。
断る理由はあるのか?もうカネがないぞ?アパートに戻ってまた電話帳をめくるのか?
それとも検討しますと言って、立ち飲み屋で焼酎でも飲みながら、じっくり考えるか?
いや、どうせ長続きなんかしやしない、とりあえず入社してから後のことは考えればいいのではないか?
頭の中でシミュレーションしたが、結局いつもの「とりあえず流れに身を任せる」やり方を採用することにした。
「ありがとうございます、精一杯働かせていただきます」
「よし!それでは皆んなに紹介しよう」
「あの、ところで給料はいくらいただけるんでしょうか?」
「ははは!大丈夫、大丈夫。他のみんなと同じスタートだ。案ずるより生むが易しと言うだろう。ははは!ただし最初の3ヶ月間は試用期間だから、そのつもりで」
何が大丈夫かわからなかったし、何が生むが易しだ?と思わないでもなかったが、ちょび髭アミーゴの有無を言わさぬ迫力に押されてしまった。
「さあ、こっちだ!」
応接のとなりの事務所へ通された。
「みんな、今日から仲間になるタケオくんだ。彼はこの業界での経験はないものの、色々な仕事をしてきている。彼に色々教えてあげるとともに、彼からも色々学んで、切磋琢磨してこの事務所を盛り上げていってほしい、はっはっは!」
と満足げにうなづいた。
そこには、暗そうな若い男3名が、じとっと机に目を落としていた。なんとも覇気がない。想像していたシャープさの欠片もない。
ナンカ、チガウナー
いったい今日何回目だ?このセリフ。
「タケオくんは今日がはじめてだから、簡単な自己紹介が終わったら、帰宅していい。明日から勤務スタートだ。私は外出するから、あとはよろしく」
とアミーゴ所長は出て行った。
その途端、途端にである。
さっきまで、じとっとしていた男たちが、目をキラキラさせながら、口々に話し始めた。
「ふー!やっと行きやがった」
「鬱陶しいのよ、アイツ!」
「空気が淀むッス」
所長がいるときは猫をかぶっているということか?
お互いに自己紹介をした。
加藤諒の風貌に似たシュニン(社歴が最も長いだけで役職が主任というわけではない)、オネエっぽいヨッちゃん、新弟子審査に来た力士見習いみたいなプーさん。お世辞にもシャープとは言えない3名だった。
僕を含めて全員が20代後半という偏った構成。驚いたことに最も社歴が長いシュニンですら1年半、他の2人はこの半年以内に入社したいわば新人だ。
うわ、ナンカ、チガウナーと思うとともに、やべえんじゃねえか?と不安いっぱい。
「所長から、給与はみんなと同じ額を保障するって言われて、具体的な金額教えてもらってないんだけど、いくらもらえるの?」と気になっている問題を尋ねた。
「14万円ッス」とプーさん
「俺はベテランだから14万5千円」とシュニン
「給与というより、お小遣いレベルね、地獄よ!」とヨッちゃん
はあ?14万円??
おいおいおいおい、やべえレベルだぞ!ナンカ、チガウナーどころの騒ぎじゃねえぞ!
「手取り…だよね?」
3人とも一斉に「当然、額面!」となんだか誇らしげ。
さらに畳み掛けるように、
「残業代も込みッス」
「地獄よ!」
「ボーナスも1ヶ月分出るかどうか」
「地獄よ!」
頭が痛くなってきた。
頭痛をこらえている僕にヨッちゃんが
「ところでタケオさんって、どうやってこの事務所見つけたの?誰かの紹介?」
と聞いてきた。
「いや、電話帳で上からアイウエオ順に掛けていって、最初にヒットしたのが、ここだったんだ」
と答えると、3人が顔を見合わせて
「奇遇ッスね!」
「こんな偶然もあるんだね!」
「運命かしら!」
と口々に声をあげる。
またまたまた嫌な予感。
「僕達も、全員、電話帳で、調べて、ここに、たどり着いたんッス」
ぐわわわわわわ
おっちょこちょいのアリンコが自分から転げ落ちてこないかと罠の真ん中で今か今かと待っている、薄気味悪い笑いを浮かべたアリジゴクを思い描いた。当然、そのアリジゴクはちょび髭でハゲ散らかしている。
まともなアリンコは、罠の脇をスイスイと抜けていき、本当に間抜けなアリンコだけが、罠に落ちる。間抜けは4匹。先に落ちた3匹は状況が分からず無邪気に笑ってやがる。
自己紹介も終わり、帰路に着いた。
帰り道。さて明日からどうすっか?このままふけちまうか?とポツポツ歩く。どうせ、すぐに辞めるつもりなんだから、とりあえず働くか…また、職探しはメンドクセーしな、まあ大丈夫だろう、とにかく職歴をつけなければ、と考えはあっちにいったりこっちにいったり。
昼間に通った道は、もう金木犀の匂いはしない。
薄暗い空の向こうからムクドリが群れをなして、こちらに向かって飛んでくるのが見えた。ふと、上を見上げると、すでに街路樹の至る所にムクドリが断末魔のような声をあげている。
ムクドリの鳴き声に混じって
「地獄よ!」
という声が聞こえたような気がした。
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