評価・・・89点
あらすじ
歴史の闇に葬られた「福田村事件」を森達也があぶり出す。
監督:森達也
オウム真理教事件や佐村河内ゴーストライター事件などを扱うドキュメンタリー作家。今回が初の劇映画。
キャスト
- 井浦新(朝鮮帰りの元教師)
- 田中麗奈(元教師の妻)
- 永山瑛太(薬売り行商団のリーダー)
- 東出昌大(イケメン船頭)
- コムアイ(未亡人)
- 水道橋博士(元軍人)
- ピエール瀧(新聞編集長)
- 豊原功補(インテリ村長さん)
- 向里祐香(義父と怪しい関係の嫁)
- 木竜麻生(女性新聞記者)
感想(※ネタバレあり)
あの森達也が本格的な劇映画を制作!と聞いて絶対に観なければと楽しみにしていたのですが、内容がなんとなく説教くさそうだな、小学生の頃の学活で見せられたようなウザいビデオっぽいな、パスでいいかな。。。と放置していましたが、近くのシネコンでも上映されることになり、それならば、と重い腰をあげて映画館に足を運びました。
さすがにビックバジェットのように大きな劇場というわけには行かず、100人程度の小さな劇場(ほぼ満席でした)。その規模が小学校の講堂のようで、なんか嫌な予感。
さらに周りを見渡すと観客の大部分は白髪頭かハゲ頭。引退した学校の先生のよう。さらに嫌な予感が急上昇!
説教臭そうな内容、小学校の講堂のような劇場、学校の先生のような観客たち。これって死亡フラグ?
全共闘世代のお左翼の教師たちに理不尽に殴られて育った私の危険センサーがビンビン。
古ぼけた講堂に集められて、まったく心に響かない反戦映画を見せられ、教師が満足する内容の感想文をほぼ強制的に書かされた記憶が呼び起こされ、自分も教頭先生ぐらいのいい歳なんですが、気持ちだけは小学四年生のあの夏の日にタイムスリップ。
体は教頭先生で心は小学4年生という最悪の状態で開演を迎えました。
ところが!ところがです!!
最初に危惧していた説教臭さはまったくなく、エンターテイメントに昇華させた素晴らしい映画でした。
このような日教組の先生が道徳の授業で張り切りそうな題材をお金の取れるエンタメに昇華させるには、イデオロギーサイドと一般消費者サイドの両方に目配せをしながら、細心の注意をもって脚本・演出を練り上げる必要があったことでしょう。
当たり障りのない恋愛ものにジャニーズかエグザイルあたりのイケメン俳優を充てておけば、それなりの興行収入が得られるだろうという低い志が透けて見える作品が多数生み出される邦画界において、この映画が登場したことだけでも、奇跡といえます。
下記に印象に残ったシーン等を列挙します。
15円50銭
「15円50銭といってみろ!」これは劇中で鮮人をあぶり出すために使われたセリフですが、ものすごいパワーワードです。小学生のときにこのセリフを知ったならば、確実に真似してたであろう、ある意味危険きわまりないセリフでもあります。
鮮人は「15円50銭」とうまく発音できない。。。という発見の過程とそれが人口に膾炙するに至る過程を想像するだけで、当時の差別的な世相が浮き彫りになり、ものすごく絶望的な気持ちになります。
また、私が当時に生きていたならば、確実に「15円50銭!」「15円50銭!」と日常の冗談として面白おかしく使っていたでしょう。それがまた想像できるだけに、自分のなかに無邪気な差別心を発見してしまい、さらに絶望的な気持ちになります。
「15円50銭」は劇中では他者に向けた差別発言でしたが、それは同時に観客に向けての問いかけ、「表面だけ取り繕った現代人づらしたお前のなかにもあるだろ?きたねえ差別心が??」というある種の呪いのようだと感じました。
そして、その呪いは鑑賞後も我々を呪縛することでしょう。
被差別者のリアル
行商団が道中にて朝鮮飴売りの娘と出会う場面では、行商団は鮮人同様おなじく差別される側であるにもかかわらず、「俺らは鮮人よりはマシだろ?」と思わず口にしてしまう。さらに同じく差別される側であるハンセン病患者にまがい物を売りつけるくだりもあり、これらは我々が持っている「被差別者は無垢なるものに違いない」、「被差別者は善人に違いない」という偏見(これもいわば差別だ)をぶっとばす痛快さがあり、また差別の多重構造を説教臭くなくさらりと表現しており、非常に心に染みる場面でありました。
そのような伏線があるがゆえに、クライマックスで叫ばれる「朝鮮人なら殺していいか!」というセリフが説教臭くなく我々を直撃するのでしょう。
朝鮮飴売りの娘や行商団の生き残りの少年が自らの名前、殺された仲間たちの名前を叫ぶシーンはエタだ、鮮人だ、ハンセン病患者だというカテゴリーに関係なく、それぞれ個々人が精一杯生きてきたんだという誇りの表明であると心に響きました。
差別者側のリアル
では、対峙する差別者側のほうは最悪最低の悪人だったのか?というと「オラが村を守らなきゃ」という正義感や「夫を鮮人に殺された」という誤解や「鮮人が攻めてくる」という恐怖心からの行動であったことが群像劇的に描かれており、それもまた被差別者側のリアルとともに差別者側のリアルとして非常に納得のいくものでした。
その点から、差別者側にブサイクな俳優を取り揃えたのは、リアルさを損なわせ「なーんだやっぱりイケメン英雄説の繰り返しか・・・」とがっかり。
ブサイク、イケメンに関係なく時代背景、世相、デマ、間違った正義感、恐怖、差別心などから虐殺になだれ込んでいく展開にして欲しかったと強く思いました。
せめて、コムアイ演じる未亡人は虐殺を止める側でなく、嫉妬からダークサイドに落ちてほしかったものです。憎き恋敵が守ろうとするものは、自分とは関係なくても、それが正しいことだとわかっていても、正反対の行動をとろうとするのが人間でしょう。
美男美女に虐殺を止める側にまわる役をあてるのではなく、積極的に虐殺に参加しないまでも、あれよあれよというまに事がはじまり、なすすべもなく進行し、我に返ったときには終わっていたという描写にしていただきたかったものです。
ただし、頭でっかちのデモクラシーを唱えても非常時には無力であった村長は「あっこれ、俺だ」と思わせるし、その村長が最後に「俺らはこの村でずっと生きていかなきゃならねえんだ。記事にしないでくれ」というのも「このセリフ、俺の同僚も言いかねないな」と思わせるし、水道橋博士演ずる差別心バリバリの虐殺率先派の在郷軍人も「みんなのために良かれて思ってやったんだよ~!!!」と泣き崩れるのも、非常にリアルで、彼らを絶対悪として描かなかったのはさすがだなと思いました。
私のなかには、正義だと盲信して許されない行為をしてしまう水道橋博士の要素も、普段は綺麗事を並べるものの、いざとなったら呆然としてしまう村長の要素も確実にあります。しかし残念ながら、正々堂々と虐殺を止めようとするキャプテン・アメリカ的な美男美女の要素はないかな。
このキャプテン・アメリカ的な要素さえなければ、満点の映画でした。
まとめ
良い点・悪い点、いろいろ書きましたが、とにかくこの映画は見るべき映画です。
とくに、自分は正義のヒーローではない、どうせ主人公にはなれないと思っている、私のような小市民の方々にはぜひ見ていただきたい。
なぜならば、けっきょくは我々大多数の小市民が時代を動かしているからです。
この映画を見ることは、自分のなかの村長や自分のなかの水道橋博士を見つめ直すこと。そう、まさしく映画鑑賞後も尾を引く傑作です。