誰かが言った。
「仕事があるだけありがたいと思いな、周りを見てみなよ、ロクでもない世の中なんだから」
クソみたいな仕事だが、なんとかありついた。クソみたいな薄給だが、毎月口座にカネが振り込まれる。
たしかにありがたいことかもしれねえな。同世代の多くがドツボにはまっているんだから。ただ運がほんの少し傾いたかどうかの違いだけで、僕はなんとか生きている。
その運もこれからどうなるかわからない。一寸先は闇。毎日一歩一歩そろりそろりと氷が割れないように歩んでいる。明日の一歩は奈落の底への一歩かもしれない。
そんな僕らの周りで一日中、Yahoo!ニュースを見てるジジイどもが高給を取って威張っている。
運が少しだけ悪い方に傾いただけでドツボにあえいでいるロスジェネ世代とラッキーなYahoo!ジジイに能力に違いがあるようには到底思えない。
ただ時代に恵まれただけにもかかわらず、そこの部分には目を向けず、俺は優秀だからここにいるのだ、お前らはクズだ、努力が足りない怠け者だと言いたげなその顔をぶん殴りたい。
とにかく、僕らの世代は、クソみたいな電車に乗って、クソみたいな会社にいき、クソみたいな仕事をこなし、クソみたいなYahoo!ジジイにこき使われて、クソみたいな薄給を得るのが、まだ運がいい方。運が傾けば奈落の底に真っ逆さまだ。
そんな終わらないタイトロープのやるせなさから逃れるにはアルコールしかない。
いつものように、クソみたいなサービス残業を終えて、いつものように、クソみたいな立ち飲み屋の片隅で安酒をあおる。酒が好きなわけではない。まさに「飲まなきゃやってらんねー」のだ。坂口安吾だったか「酒なんて大嫌いだ、酩酊したいから、鼻をつまんで飲んでんだ」とのたまっていたから、まあ酒の味が好きで飲んでるのは恵まれたグルメ気取り野郎ぐらいなもので、大方は「やってらんねー」わけである。
その日も、クソみたいな立ち飲み屋で、残り少ない財布の中身について思いを馳せながら、中島らもよろしく「ニラミ豆腐」を肴にホッピーをあおっていた。
この立ち飲み屋は、気取ったスタンディングバーもどきでなく、由緒正しい立ち飲み屋だ。
事前に回数券のような食券を買い、焼酎のお代わりが欲しい時は、手を挙げると、ショットグラスになみなみと注がれた焼酎を持った店員がやってきて食券と引き換えに、ジョッキにバシャッと無造作に放り込んでくれる。
そして客のほぼ全員が中年以上のくたびれた野郎どもだ。そして皆が無言で脳を痺れさせることを目的に黙々とアルコールを放り込んでいる。
そういう意味で、正しくその存在意義を果たす、由緒正しい立ち飲み屋だ。
そんな正しい立ち飲み屋にも三日にあげず通っていると見知った顔も出てくる。しかし話す気にはなれない。ほぼ全員が元々どんよりとした覇気のない目をアルコールでさらにどんよりさせようという輩であるから、とてもじゃないがお近づきになりたくない。まあ、向こうもこっちをそう思っているんだろうが……。
そんな中で、唯一どんよりとしていない、覇気のある男が店に入ってきた。彼のことはもちろん知っている。なんせ唯一どんよりしていない常連だからだ。
ときおり目が合うと会釈を交わす程度にはコミュニケーションを取っている。当然、それ以上の接点を持ったことはなかったし、持ちたいとも思わなかった。なんせ、現実をアルコールでおぼろにするのに一生懸命で、他人のことなどかまっていられないし、彼の店員呼ぶ覇気のある声や日に焼けたその爽やかな外見から、こんなところにくるなよバカヤロウここはくすぶりのくる場所だ日の当たる場所に帰りやがれ、とすら思っていた。
「となり、すいません」
小声ながら、しっかりとした口調でそのサワヤカ君が僕の隣のスペースに滑り込んだ。
「ホッピーセット、お願いします!」
ハキハキとした口調で注文を告げる。
ちっ、めんどくせーのが隣に来たなと思い、目を合わせないように豆腐を睨む。
「あれ?黒い三連星?」
どうやら僕の携帯ストラップを見て、僕に向かって話しているようだ。
「えっと、マッシュ、オルテガ、なんだっけ?」
…ガイア…
聞こえないふりを決め込むつもりだったが、ついつい答えてしまった。
「そうそう!ジェットストリームアタック!なつかしー!もしかして、同世代ですか?」
あえて面倒くさそうに、ガンプラを買うために日曜日の朝早くから親父と一緒にオモチャ屋に並んだ世代だよ、と答えた。
サワヤカ君の持ち前のコミュ力が発揮されたのか、30分後には、しかし未経験の少年兵を最前線に無理やり立たせて、その才能のみを拠り所にして作戦を立案する連邦軍ってほんとロクでもねーよな、あれは今思うと根性論でなんでも乗り切ろうとする旧日本軍の暗喩なんかな、現代のブラック企業にも通ずるヤバさがあるよな、などと笑い合いながら酒を酌み交わすまでになっていた。
たまには人と飲むのも悪くねーなと、久しぶりの心地よさを感じると同時に、なんだか気恥ずかしい思い。
それからしばらく飲んだ。いくらか食券も買い足した。
「本当はあんたともっと早く話したかったんだよ、でも、あんたみたいにネクタイをはめたきちんとした会社に行っている人は俺には縁が遠いと思って躊躇してたんだ」
とサワヤカ君はポツリと言った。
なにを言ってる、君はコミュ力抜群のサワヤカ君じゃないか、どこへ行っても人気者だろ?僕は岩陰でじっとりとしている苔のようなものさ、だから住む世界が違うから、むしろ敬遠していたぐらいだよ、というようなことをオドオドとゴニョゴニョと言った。
酔ったようだった。この手の話は僕にとって大いに苦手な分野のはず。普段なら押し黙ってしまう場面であるが、オドオドゴニョゴニョながら言葉をつなぐことができたのは、酔った証拠だろう。
「俺なんかどうしようもないよ」
彼も酔ったのか少し聞き取りにくい声でつぶやくように言った。
いや、君はコミュ力が…
「じゃあ、なんで俺にはまともな仕事がないの?」
ジョッキをガッとテーブルに置きながら唸るようにいった。
「いつまで警備員を続ければいいの!?」
彼は握りしめた拳を睨みつけている。
「教えてくれよ!」
僕はなにも答えることができなかった。
酔ってはいたが、なにも答えることができなかった。
ただ、干からびた豆腐を睨みつけるしかなかった。
そこからの記憶は非常に曖昧だ。逃げるようにアルコールを摂取したからか、嫌な記憶として海馬の奥底にしまい込んでしまったのか定かではない。
あの時、僕は彼に何と声をかければよかったのだろうか?
まだまだチャンスはあるよ、頑張れ!と励ますべきだったのか?もう40過ぎた男に?もう終わりかけているのに?
まだまだ努力が足りないのだ、こうした方がいい、ああした方がいいとアドバイスする?そんなYahoo!ジジイみたいな恥ずかしいことはできない。
運が悪かったんだよ、君のせいじゃないといえば良かったのか?それこそ絶望だろう。
なんといえば良かったのか?あなたならどう言う?教えてくれ。
終わりかけている僕たちにどんな言葉をかけてくれるのか?
彼とはその日どのようにして別れたのか忘れてしまった。
その後、その立ち飲み屋からは足が遠のき、彼とはそれ以来会っていない。
古びた財布からひょっこり余った食券が出てきたのを見て、彼のことを思い出した。
もったいない気もしたが、その食券をゴミ箱に捨てながら、あの夜のことを思い出したのだ。